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NO.10410242

宗教学校 キリスト・仏教etc…

0 名前:儒教:2006/03/09 13:35
キリストや仏教の学校がいくつかありますが何かの役に立っているのでしょうか?
今どきキリストの教えや釈迦の教えなど要りますか?
皆さんの考えを教えてください。
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194 名前:名無しさん:2006/09/08 13:51
シツコイ
195 名前:名無しさん:2006/09/09 14:00
あそこは宗教と関係あるの?
196 名前:名無しさん:2006/09/21 12:45
ない
197 名前:名無しさん:2006/09/26 16:03
亀戸のラーメン屋はまだあるの?
198 名前:名無しさん:2006/10/03 12:33
やっぱり・・そこかい!?
199 名前:名無しさん:2006/10/06 02:47
200
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201 名前:名無しさん:2006/10/06 16:54
現代社会について宗教国家なんてイスラム圏の特殊なことと考えがちですが決してそのようなことはありません。
最近NHKをお辞めになった池上彰さん(子供ニュースでお世話になった方も多いかと思います)の近著『そうだったのか!アメリカ』(2005年ホーム社)などをお読みいただくのもいいかと思います。
また、多神教国家であったローマがキリスト教によってローマでなくなっていく悲痛な叫びを塩野七生さんは『ローマ人の物語壱 ??~??』(2003年~2005年)で述べておいでです。
また、最近の研究では『島原の乱』は農民の圧制に対する反乱ではなくて『宗教戦争』であったという見方も有力になっています。実際、騒乱時という特殊事情下にあるとはいえ、キリスト教徒による非キリスト教徒の虐殺行為の記録もあります。

決して日本も例外とは言い切れないと思います。
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205 名前:啓示:2006/10/08 13:33
すいません、一般の学校別の掲示板で「宗教ネタ」として嫌われたので、
ここでうっぷんを晴らさせて下さい。スレタイから定住の地と判断しました。

宗教とは他者に非寛容であり、特定の価値観への同意を求めることであることにもっと留意すべき。
道徳が宗教になっているのも特定の宗門の生徒への教育を目的としているから許されるという認識はきちっと持つべき。
ミッション系が精神教育だというのは正に特定の価値観そのもの。

中教審における識者からのヒアリング概要から一部引用します。

『とかく宗教界の人間は「宗教平和」ということを言うが、宗教の基本は、自分たちとそれ以外を区別することである。
 キリスト教では異端を審判し、ユダヤ教の教義の基本は神と選ばれた民であるイスラエルとの契約であり、神道でも国を治めるべしとの神の命令から神話や国造りが始まっている。
 基本法第1項の「寛容の態度」が必要なのは、もともと他宗教に寛容ではないから。
 公立学校には色々な人がいるので、特定の宗教を教えることができないのは当然である。』
『一方で、私学については、学教法施行規則(第24条第2項)において、「宗教をもって前項の道徳に代えることができる」とある。
いろいろな人が集まる公立学校で宗教教育をすることは押しつけになり、信教の自由に反するが、決まった宗門の生徒が集まる私学では、宗教が道徳教育に当たるとの認識は正しい。』

阿部美哉氏(國學院大学長)の意見陳述の概要
(中央教育審議会第20回基本問題部会(平成14年12月19日)より)
206 名前:啓示:2006/10/10 12:12
連続ですみません、もう一つ。

ユダヤ教からキリスト教、イスラム教と続く一神教の教えについて日本人は安易に考えていないでしょうか?
現在この中で最も信徒の多いキリスト教徒も日本の人口の1%程度といわれていますが、安土桃山時代から江戸初期においては西日本を中心に人口の約10%を占めていたといわれています。

特に三宗教に共通して引き継がれている宗教感に終末観があります。
「信ずるものは救われる」・・・この言葉に代表されるように『最後の審判』に備え日々の生活を送る。
全ての教えの基本をなすものといっても過言ではないでしょう。
ここに、一種の選民思想が潜んでいるといわざるを得ません。
一神教の他者への非寛容さを無視して現代社会の国際情勢を語ることは出来ません。
宗教を考える際には一神教の問題を抜きに考えるのは非現実的ではないでしょうか・


最後の審判(さいごのしんぱん)
「世界の終末においてメシアが出現し、死者をよみがえらせて裁きを行い、永遠の生命を与えられる者と地獄へ墜ちる者とに分ける、という思想をいう。
 これはユダヤ教からキリスト教・イスラム教に引き継がれ、これら3つの宗教において重要な教義となっている。
 元々はゾロアスター教の教義から来たものと言われる。」

(出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E5%AF%A9%E5%88%A4)
207 名前:名無しさん:2006/10/12 16:28
『人間は罪をおかす存在であるが、(神にして)人であるイエス・キリストの死はこれを贖い、
イエスをキリストと信じるものは罪の赦しを得て(赦しを受けても償いの義務は残るので注意 償いを免れるわけではない)
永遠の生命に入る、という信仰がキリスト教の根幹』

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99#.E6.97.A7.E7.B4.84.E8.81.96.E6.9B.B8.E3.81.AE.E6.A7.8B.E6.88.90.E3.81.AE.E9.81.95.E3.81.84

これが高じると異教徒は悪魔の手先にという考えになる。
ミッション系の尊大さはここに起因するのでは。
事実であっても批判は許さない態度を見ると感じる。
208 名前:名無しさん:2006/10/13 12:34
「信ずるものは救われる」・・・この言葉に代表されるように『最後の審判』に備え日々の生活を送る。
 全ての教えの基本をなすものといっても過言ではないでしょう。
 ここに、一種の選民思想が潜んでいるといわざるを得ません。

最後の審判(さいごのしんぱん)
「世界の終末においてメシアが出現し、死者をよみがえらせて裁きを行い、永遠の生命を与えられる者と地獄へ墜ちる者とに分ける、という思想をいう。
 これはユダヤ教からキリスト教・イスラム教に引き継がれ、これら3つの宗教において重要な教義となっている。
 元々はゾロアスター教の教義から来たものと言われる。」

(出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E5%AF%A9%E5%88%A4)
209 名前:名無しさん:2006/10/13 13:35
カトリックが異端を排除してきた歴史と様々な福音書を隠蔽・抹殺した歴史がだんだん世の中に知られてきた。
ローマ教皇庁も『3世紀』にかかれた聖書で現代人を導くには限界があると認めている。
現在の新版・新約聖書は331年にコンスタンティヌスによって編纂を命じられたもの。
つまり4世紀に書き換えられたというもの。
8世紀になって(4世紀から400年後!)公表された『コンスタティヌスの寄進状』によってローマ教皇が地上における神の代表者だと確認され、それ以降よヨーロッパの君主は教会の代表者によって執り行われる戴冠式を通じて王座につくようになった。
カトリック教会にとってイエスの血脈の話は自らの偽善性を示すことになる。
ダビンチコードも下記書籍を契機に書かれている。

 マイケル・ベイジェント、リチャード・リー、ヘンリー・リンカーン
 『レンヌ=ル=シャトーの謎-イエスの血脈と聖杯伝説』林和彦訳、柏書房、1997年
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215 名前:名無しさん:2006/11/03 06:23
カトリックが異端を排除してきた歴史と様々な福音書を隠蔽・抹殺した歴史がだんだん世の中に知られてきた。
ローマ教皇庁も『3世紀』にかかれた聖書で現代人を導くには限界があると認めている。
現在の新版・新約聖書は331年にコンスタンティヌスによって編纂を命じられたもの。
つまり4世紀に書き換えられたというもの。
8世紀になって(4世紀から400年後!)公表された『コンスタティヌスの寄進状』によってローマ教皇が地上における神の代表者だと確認され、それ以降よヨーロッパの君主は教会の代表者によって執り行われる戴冠式を通じて王座につくようになった。
カトリック教会にとってイエスの血脈の話は自らの偽善性を示すことになる。
ダビンチコードも下記書籍を契機に書かれている。

 マイケル・ベイジェント、リチャード・リー、ヘンリー・リンカーン
 『レンヌ=ル=シャトーの謎-イエスの血脈と聖杯伝説』林和彦訳、柏書房、1997年
216 名前:名無しさん:2006/11/20 15:23
d
217 名前:名無しさん:2006/11/27 07:35
fd
218 名前:名無しさん:2006/12/18 13:11
『いったんキリスト教徒になれば、皇帝といえども一匹の羊にすぎない。
 「羊」と「羊飼い」では、勝負は明らかであったのだ。
 ミラノ司教アンブロシウスは、キリスト教と世俗の権力の関係を、実に正確に把握していたのにちがいない。
 皇帝がその地位に就くのも権力を行使できるのも、神が認めたからであり、その神の意向を人間に伝えるのは司教とされる以上、皇帝といえども司教の意に逆らうことはできない。
 これが、両者の関係の真実である、と。』
(『ローマ人の物語?? キリストの勝利』塩野七生 新潮社 2005年)
219 名前:名無しさん:2006/12/18 13:14
歌人の林あまりは、恵泉女学園の高校のほう出ているんだって。
だから、彼女がキリスト教徒なのもうなずけるなあ。
220 名前:名無しさん:2006/12/19 09:11
私だったら、カトリック系ダナ☆
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224 名前:名無しさん:2006/12/22 16:58
キリスト教の基本的教義

<以下の出所>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99#.E6.97.A7.E7.B4.84.E8.81.96.E6.9B.B8.E3.81.AE.E6.A7.8B.E6.88.90.E3.81.AE.E9.81.95.E3.81.84


キリスト教の根本教義をまとめたものを信条(信経)という。
もっとも重要なものとして、現在のキリスト教のほとんどの教派が共有するニカイア・コンスタンティノポリス信条(381年に成立)と、
それとほぼ同じ内容を含むがやや簡略で、西方教会で広く用いられる使徒信条(成立時期不明。2世紀から4世紀頃か)がある。
信条は教会内に存在した異端を否定するために成立し、現在も洗礼式や礼拝で信仰告白のために用いられる。
以下、ニカイア・コンスタンティノポリス信条の構成に沿って、キリスト教の基本教義を示す。


神は三位一体である。
父は天地の創造主である。
子なる神イエス・キリストは万物に先立って生まれた父の独り子である。
したがって被造物ではない(アリウス派の否定)。また子は父とともに天地を創造した。
キリストの聖母マリアからの処女生誕。
地上におけるキリストは肉体をもった人間であり、幻ではない(グノーシス主義や仮現説の否定)。
これはわたしたち人類を救うためであった。
のち、キリストの人性についての解釈の違いから東方諸教会が生まれた。
キリストは罪人としてはずかしめられ、十字架上で刑死したが、三日目に復活した。
昇天し、栄光の座である「父の右に座している」。
キリストは自らの死によって死を克服し、人類をもまた死から解く正当な権能を得たと信じられる。
キリストは再臨し、死者と生者すべてを審判し、その後永遠に支配する。
聖霊も神(=人格をもった存在)である。聖霊はイエスの地上での誕生に関係し、また旧約時代には預言者を通じてその意思を伝えた。
聖霊もまた被造物ではない。
なお聖霊は父から生じたか、それとも父と子から生じたかは後世議論の的となり、カトリック教会と東方正教会の分裂の契機となった(フィリオクェ問題)。
教会の信仰。新約聖書では教会を、イエスの意思によってたてられた地上におけるイエスの象徴的身体であり、聖霊がその基盤を与えたとする。
そのような理想的教会は、時間と空間を超えた統一的な存在であり(一性)、神によって聖とされ(聖性)、万人が参加することができ(普遍性)、イエスの直弟子である使徒たちにつらなるものである(使徒性ないし使徒継承性)と信じる。
これを実現することが信者の務めである。
キリスト教信仰は、他者との歴史的また同時代的共同(交わり)のなかにのみなりたつもので、孤立した個人によって担われるものではない。
なお使徒性ないし使徒継承性については、西方教会では意見の相違がある。
洗礼(バプテスマ)による罪の赦し。
神すなわち「父と子と聖霊」の名において教会においてなされる洗礼は、時代や場所や執行者に左右されず、ひとつのものであり、それまでに洗礼を受けるものが犯した罪を赦す。
洗礼を受けることは信者となって教会に入ることであり、またキリストの死による贖いを信じうけみとめることでもある。
ここから、罪を赦された後=入信後は、信者はその赦しに応えて再び罪を重ねないように努力するべきであると信じられる。
(なお、赦しと償いは別物であり、赦しを得た後でも罪を償う義務は残る。)
死者の復活と来世の生命。
上述のようにキリストの再臨において、すべての死者は審判を受けるべく復活させられる。
信じるものには来世の生命が与えられる。
伝統的にキリスト教では、この来世を、永遠、つまり時間的な持続をもたない永遠的現在と解する。
225 名前:名無しさん:2006/12/25 15:48
ww
226 名前:名無しさん:2006/12/25 15:50
自分の都合のいい話をでっち上げ正当化し、異端は排除する。
カトリック・プロテスタントともに共通の体質。
他校への攻撃性は同根。

 バート・D・アーマン 『捏造された聖書』 松田和也訳 柏書房 2006年

カトリックが異端を排除してきた歴史と様々な福音書を隠蔽・抹殺した歴史がだんだん世の中に知られてきた。
ローマ教皇庁も『3世紀』にかかれた聖書で現代人を導くには限界があると認めている。
現在の新版・新約聖書は331年にコンスタンティヌスによって編纂を命じられたもの。
つまり4世紀に書き換えられたというもの。
8世紀になって(4世紀から400年後!)公表された『コンスタティヌスの寄進状』によってローマ教皇が地上における神の代表者だと確認され、それ以降よヨーロッパの君主は教会の代表者によって執り行われる戴冠式を通じて王座につくようになった。
カトリック教会にとってイエスの血脈の話は自らの偽善性を示すことになる。
ダビンチコードも下記書籍を契機に書かれている。

 マイケル・ベイジェント、リチャード・リー、ヘンリー・リンカーン
 『レンヌ=ル=シャトーの謎-イエスの血脈と聖杯伝説』林和彦訳、柏書房、1997年
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230 名前:名無しさん:2007/01/20 10:11
『とかく宗教界の人間は「宗教平和」ということを言うが、宗教の基本は、自分たちとそれ以外を区別することである。
 キリスト教では異端を審判し、ユダヤ教の教義の基本は神と選ばれた民であるイスラエルとの契約であり、神道でも国を治めるべしとの神の命令から神話や国造りが始まっている。
 基本法第1項の「寛容の態度」が必要なのは、もともと他宗教に寛容ではないから。
 公立学校には色々な人がいるので、特定の宗教を教えることができないのは当然である。』
『一方で、私学については、学教法施行規則(第24条第2項)において、「宗教をもって前項の道徳に代えることができる」とある。
いろいろな人が集まる公立学校で宗教教育をすることは押しつけになり、信教の自由に反するが、決まった宗門の生徒が集まる私学では、宗教が道徳教育に当たるとの認識は正しい。』


阿部美哉氏(國學院大学長)の意見陳述の概要
(中央教育審議会第20回基本問題部会(平成14年12月19日)より)
http://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/voice/001/v001_03.htm


ユダヤ教からキリスト教、イスラム教と続く一神教の教えについて日本人は安易に考えていないでしょうか?
現在この中で最も信徒の多いキリスト教徒も日本の人口の1%程度といわれていますが、安土桃山時代から江戸初期においては西日本を中心に人口の約10%を占めていたといわれています。


特に三宗教に共通して引き継がれている宗教感に終末観があります。
「信ずるものは救われる」・・・この言葉に代表されるように『最後の審判』に備え日々の生活を送る。
全ての教えの基本をなすものといっても過言ではないでしょう。
ここに、一種の選民思想が潜んでいるといわざるを得ません。
一神教の他者への非寛容さを無視して現代社会の国際情勢を語ることは出来ません。
宗教を考える際には一神教の問題を抜きに考えるのは非現実的ではないでしょうか・


最後の審判(さいごのしんぱん)
「世界の終末においてメシアが出現し、死者をよみがえらせて裁きを行い、永遠の生命を与えられる者と地獄へ墜ちる者とに分ける、という思想をいう。
 これはユダヤ教からキリスト教・イスラム教に引き継がれ、これら3つの宗教において重要な教義となっている。
 元々はゾロアスター教の教義から来たものと言われる。」


(出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E5%AF%A9%E5%88%A4)
231  名前:投稿者により削除されました
232  名前:投稿者により削除されました
233 名前:名無しさん:2007/01/20 13:22
あの、このスレは他の普通の掲示板で疎まれた宗教オタク(または宗教マニア)が、
日頃のうっぷんを思う存分に晴らすガス抜きの場として機能しているという理解でよろしいでしょうか?
私自身も色んなスレで宗教色の強い示唆めいたレスを何回か投稿したことがあるのですが、
そのたびに「うざい」「キモイ」「おたく」「変質者」「偏執狂」などと罵詈雑言を浴びました。
もしこのスレが同様の方々の救いの場になっているのであれば大変有り難いのですが。
また同胞の皆様との意見交換ができれば大変嬉しく思います。
どうか主のお慈悲を。
234 名前:名無しさん:2007/01/20 15:20
最近
PHP文庫の『「世界の神々」がよくわかる本』を読んだ。
面白かったョ。
今度は『「世界の悪魔」がよくわかる本』みたいなのが読みたい。
いい本知らない?
235 名前:名無しさん:2007/01/21 01:34
知ってるよ
236 名前:名無しさん:2007/01/21 01:35
おれも
237  名前:投稿者により削除されました
238 名前:名無しさん:2007/01/21 10:47
hg
239 名前:名無しさん:2007/03/10 09:43
また他スレで変質者扱いされたのでこちらに寄らせてもりました。
それにしても何でこう邪険にあれるのか不思議です。

カトリックが異端を排除してきた歴史と様々な福音書を隠蔽・抹殺した歴史がだんだん世の中に知られてきた。
ローマ教皇庁も『3世紀』にかかれた聖書で現代人を導くには限界があると認めている。
現在の新版・新約聖書は331年にコンスタンティヌスによって編纂を命じられたもの。
つまり4世紀に書き換えられたというもの。
8世紀になって(4世紀から400年後!)公表された『コンスタティヌスの寄進状』によってローマ教皇が地上における神の代表者だと確認され、それ以降よヨーロッパの君主は教会の代表者によって執り行われる戴冠式を通じて王座につくようになった。
カトリック教会にとってイエスの血脈の話は自らの偽善性を示すことになる。
ダビンチコードも下記書籍を契機に書かれている。

 マイケル・ベイジェント、リチャード・リー、ヘンリー・リンカーン
 『レンヌ=ル=シャトーの謎-イエスの血脈と聖杯伝説』林和彦訳、柏書房、1997年
240 名前:名無しさん:2007/03/10 12:42
訂正

また他スレで変質者扱いされたのでこちらに寄らせてもりました。→立ち寄らせてもらいました。
それにしても何でこう邪険にあれるのか不思議です。→邪険にされるのか不思議です。
241 名前:名無しさん:2007/03/11 07:34
↑中学受験のスレだよ・・学校と関連なさそうな話じゃない?
 キリストや仏教の学校がいくつかありますが何かの役に立っているのでしょうか?



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